友達について

いや~アイカツの「Signalize!」、良い曲ですね…

1番が「君と向かう場所はどこだろう 眩しい希望の中へ」で、2番が「やがて生まれ変わる世界を 感じる予感の中で」なんですね~。良い歌詞だ。アイカツのアニメはちゃんと見たことないですが。

 

しかしそういう、子ども向けアニメが協調してるような、「仲間との絆!」みたいなものが、対人関係を縛っているのではないか!?とも思うのです。

このブログでセクシュアリティのことについて最初に書きましたが、セクシュアリティを自覚する以前に、私は対人関係がそもそも苦手な人間だったので、そこから書こうと思います。

 

最初に同年代の集団社会に放り込まれるのは、たいていの人は幼稚園保育園の頃だと思うのですが、そのころから集団に入っていくのが苦手でした。友達ができるのにとても時間がかかって、小学校に入ってもそれは同じで、クラス替えが恐怖でした。

 

それでも少数の友達と過ごすことはできていたのですが、思春期に入ると、自意識が澱のように積もっていき、他人との距離感がつかめなくなっていきます。

「みんなと同じように振る舞うことができない(こいつらと同じにはなりたくない)」

そういう思考がどんどん研磨されていって、自分を守ると同時に、自分を傷つけていきました。

 

それでも(それゆえに)、人と関わりたいという気持ちが強く強くありました。

距離感をつかめないながらも、その場その場で、出来る限りの努力をもって、人と接していたと思います。言葉の通じない無力感、その度に自分の心の扉が閉まるのを、何度も経験しました。

 

しかし、20代に入って時間がそれなりに経過した頃、「扉を開いていていいのかもしれない」と思える友達が、気づいたら側にいました。

その友達は、出会った時から何でも話せる間柄、というわけではありませんでしたが、一緒にいて疲れない、取り繕って話をする必要のない相手でした。

時間をかけて色々な話をしていって、ある時に、「あ、この人なら、ここを開いて大丈夫かもしれない」と、思った瞬間がありました。その時に初めて、他人に心の深い部分まで、曝け出したと思いました。そして、その友達も、心の深い部分、大切な部分を開いてくれたように感じました。

 

「みんなと同じ」に振る舞わなくても、受け入れてくれる人がいる(そして私も受け入れる)。そういう瞬間を経て、ようやく私は「友達がいる」「人と繋がっている」という実感を持つことができたのです。

 

その友達は自分にとって大切な存在です。

そして、そういった対人関係があることによって、人と関わることを信じられるようになりました。と同時に、自分を擦り減さなければならない関係とは距離を置けるようになりました。

 

なので、今の自分の目標は、「自分が自分のままで人と関わっていくこと」、です。

そしてそれが人のためになれば、いーよねー。

 

でも、「友達になること」だけが人との関わりじゃないとも思ってます。

いろんな関わり方があっていい。それぞれの関わり方で、「変わる世界」を迎えられたらいーのだと思います。

 

日々しんどいことが多々あるけど、そんな希望的観測を抱いて、どうにか過ごしています。

 

 

 

自己紹介

自己紹介って、昔から苦手です。
わたしが小学生くらいのころって、プロフィール手帳というのかな、いろいろな友達にプロフィール書いてもらって集めるみたいな謎の風習があったんですけど、あれめっちゃ苦手でした。
中高生になっても、クラス替え直後とかに自己紹介とか書かされるじゃないですか…書くことねーよ!教師や他の学生が期待するようなもん書けねーよ!「好きな音楽」のところに誰も名前知らないようなバンド名とか書いたらダメなんだろ!?とか思ってました。
 
そういう、「大多数からはみ出さない適切な振る舞い」というのが、昔からできなくて。
いや、できている部分があっても、どこかつねにはみ出しているというかズレているというか、「上手くできない」といつも思っていました。
これは対人関係もろもろに関わることなので、また別の記事で詳しく書きたいです。
 
そんなわけで、セクシュアリティについて自覚、自認する以前から、自分自身はマジョリティから外れた存在である、という意識がつねにありました。
なので、セクシュアリティにまつわることが一番わたしを苦しめてきたか、というと自分自身でも疑問で。それでもこの社会では、セクシュアリティジェンダーによって大きく人の生き方が左右されてしまう、ということが年を重ねるごとに見えてきたので、こんなにも色々と考えてしまうのだと思います。
 
ただセクシュアリティに言及しただけではどんな人間かわからないので、適当に自己紹介をしていきます。
ここは教室ではない、監視の目はないのだ。
 
☆ポリシーとして
反性差別、反異性愛主義です!
これにその他の問題が重なってきますが、差別の構造そのものは同じなので、Aの問題のためにBの問題を矮小化/隠蔽してもいい、とは絶対に思わない派です。
 
☆マンガ
それなりによく読みます。
大島弓子清水玲子高尾滋志村貴子中村明日美子/秀良子/志村志保子望月花梨天野しゅにんたテクノサマタ/永井三郎 (敬称略)
などなどが好きです。その他にも好きな作品が色々あるので、おいおい書いていきます。
 
☆女子アイドル
モーニング娘。15が好きです。Perfumeももクロも好きです。
ただ女子アイドルが置かれている立場って、とても闇が深いので、消費者である自分を含めて批判的に見ないといけないなーって思います。
 
☆動物
小学生のときは飼育委員と図書委員をやっていました。
犬猫はもちろん、カピバラウォンバットなどのむちむちした動物はとても良いと思います。
 
☆アニメ
小さい頃にセーラームーンを見て育ちました。キラキラして個性を持った女の子たちは、とても美しくかっこよく、女の子同士が強い絆で結ばれているのが強く印象に残っていました。
その後鬱屈した思春期を過ごし、少し経ったあと、小さい頃に抱いたキラキラへの憧れと、思春期に溜め込んだドロドロの自意識、20歳を超えてフワフワと居場所を探しあぐねていたセクシュアリティへの意識、その三つが見事に融合した作品に出会いました、そう「少女革命ウテナ」です。10年以上の時を経て、わたしは幾原邦彦に再会しました。
新世紀エヴァンゲリオン」を初めて見たときも衝撃を受けましたが、庵野秀明が対他者におけるどうしようもない絶望感を描いたのに対し、幾原邦彦はその絶望のなかにかすかに存在する光を描こうとしているように見えます。冷笑主義にもつながりかねない前者より、理想主義的な後者の方がわたしは好きです。
 
流行っているアニメも、最近追いかけるようになりました。
free!ではまこちゃん、黒子のバスケでは赤司くん、ハイキューでは及川さん、弱虫ペダルでは真波くんと東堂さん推しです。
 
 
とりあえずこんな感じです。
他にも、ぽつぽつとこれから書いていきます。
 
 


はじめに

はじめまして。
おのと申します。
SNSでまともに発信をしたことがないのですが、ブログを始めてみました。
 
わたしは昔から、フェミニズム/ジェンダー/セクシュアリティに関すること、ものに関心があり、それなりに長い間「なんでだろう?」と思っていたのですが、20歳を超えてそこそこ経ってから、自分がアセクシャルなのではないか、と思い当たりました。
 
アセクシャル〉という言葉はそれ以前にも知っていたけれど、それまでのわたしの〈アセクシャル〉に対する認識は、なんかこう児童文学の世界のような、キラキラしいピュアな世界にいる人たち、という偏ったイメージによって形成されていました。
けれど、長い間自分自身のセクシュアリティの行方がわからず、その行方がわからないことこそが、〈アセクシャル〉の定義に当て嵌まる、とだんだんと思うようになりました。
 
アセクシャルに対して上記のような偏ったイメージを抱いていたものだから、自分がそれではないか、と考えたとき、マジかよ…ってなりました。
アセクシャルであることに対して抵抗があった訳ではなく、自分のようなドロドロとした、煩悩にまみれた人間がそれを自認していいのか…?という疑問が拭えなかったのです。
それでもアセクシャルの定義である、「恋愛感情や性的欲求を他者に抱かない」という部分に、自らが当て嵌まっているように見えました。
 
そこからインターネット上でアセクシャルについて探っていくと、そう自認されている方が複数見つかり、そしてそれはとても多様なものでした。
わたしが見た範囲では、そういった方々も、定義については戸惑いながら、そのカテゴリーを用いているようでした。
現在、セクシャルマイノリティーは「LGBT」という言葉で一括されることが多く、その言葉によって可視化が進んでいる状況がある一方、「LGBT」に包括しきれないものがこぼれ落ちていくこと、また、「LGBT」という一言が用いられることによって、そのなかの差異や分断が覆い隠されてしまうことが、一個人としてとても怖ろしいのです。
 
アセクシャル、またノンセクシャルは、定義が難しいものでもあるけど、そもそも認知されていない、ということが問題かなぁと(今現在、ぐーぐる先生で「レズビアン」と「アセクシャル」の検索数を比較すると、0がひとつ違うぞ!)。
わたしはアセクシャルという言葉の定義は、必要があれば更新されるべきだと思うし、色々な人が、真摯にその言葉に向き合ってほしいと思っています。
そのために、色々な人にその存在そのものと、そのなかの振れ幅、グラデーションを知ってもらうことが必要だと感じました。
 
なのでわたしは、わたしが現状で一番しっくり来る立ち位置から、少しずつでもいいから発信をしていこう、と思って、ブログを始めてみました。
いつか〈アセクシャル〉という言葉の意味が変わって、もしくはより詳細になって、わたしがそこに当てはまらなくなっても、一向にかまいません。
その頃にはあたらしい言葉ができているかもしれないし、そもそも、わたしは自分自身や、似たような部分で生き辛くなっている人たちが、生きやすくなればそれでいい。
 
今まで、自己開示や他人と関わることには苦手意識があり、色んなところでためらって二の足を踏んでいましたが、これからは少しずつ、自分を開くことによって人と関われたらいいなと思います。
わたし自身が、直接顔を合せない人であっても、色々な言葉に(一方的に)救われた経験が多々あるので。
 
ただ、最初にセクシュアリティのことを書いておいてあれですが、書く内容をそれだけに絞ると絶対に書かなくなるので…マンガやアイドル、映画、展覧会の話なども今後はだらだらしていきます。
そういうものを通じて、セクシュアリティを含む自分自身のことを、認識していったという過程を含めて。
 
よろしくお願いします。